ミステリーとホラーの境界
僕がその探偵事務所に向かうのは、日課のようなものだった。
近所に越してきた彼が、僕の家に挨拶に来たのがそもそもの始まりだ。
「どうも。ここに最近引っ越してきました。二条と申します」
奥の目が伺えない深い色合いのサングラスをかけた彼は、二条と名乗った。外見の胡散臭さとは裏腹に礼儀正しい男で、家族ぐるみで彼と親しくなるのは時間の問題だった。
小学生の僕が彼の事務所に足繁く通うようになったのは、純粋な好奇心から。
――二条が語る話を聞くためだ。
彼の話す内容は、同級生のものとも先生のものとも違った。
僕は二条の話を聞きたくて、放課後に他に用がなければ、必ずそこに向かう。
二条は探偵だ。お客と鉢合わせたり、仕事の邪魔になりやしないかと言われそうだが、僕は今まで彼が客と対面した所を見たことが一度もない。
客が来ないのに、どうやって仕事を続けてるのか。子供心に気にはなったが。直接尋ねたことはない。
大げさかもしれないが、尋ねたらもうここには来られないような、そんな直感が僕にはあった。
「じゃあ、今日はミステリーとホラーの違いについて教えてやるか」
開口一番に二条は僕にそう言った。
本当なら面会に来たお客が座るだろうソファに、僕は腰を落ち着けていた。二条の言ったことが腑に落ちず、僕はまばたきをした。
「考えるまでもなく全然違うんじゃないの?」
目の前にある木製のテーブルにはオレンジジュースの注がれたグラスがある。
僕はそれを持ち上げてストローから一口飲んだ。
二条は僕に笑いかける。
「ほう。たとえばどこが違うか言ってみろ」
「ホラーはお化けを怖がるもの。ミステリーは犯人をあてるもの。このぐらい誰でも分かるよ」
「だが『日常から非日常に変わるもの』と思ってみると随分と似たものに見えてこないか」
僕はジュースから視線を思わず持ち上げた。
二条は何を考えたのか。
一枚の適当なチラシを選び、それと引き出しからボールペンを持ちだして、再び僕の前に座った。
何をする気か検討もつかない。
だが僕はまたいつものように、気づかぬ内に彼の話に引きこまれ、夢中になっていた。
「推理小説では、探偵ってのは一種の『装置』みたいなものだ」
「装置?」
「登場人物を非日常から日常に帰す装置。ぞんざいに言ってみればホラーとミステリーの違いは、探偵役がいるかいないかだな」
僕はストローを気まぐれに噛んでから、二条に聞く。
「何言ってんのさ。さっきも言ったけど、ホラーとミステリーにはもっと大きな違いがあるだろ。ミステリーに出る犯人は、ゾンビとか幽霊じゃないんだから」
「だが犯人が見つかるまでは、定かじゃないだろ」
「え?」
「殺人現場に出くわすなんてのは、普段の環境からすれば充分な非日常だ。急に誰かが殺された。どうしてだ? いったい誰が? 登場人物達はきっと大きく混乱する。――それこそ、ゾンビやお化けにでも会ったようにね」
ストローからジュースをすする音がぴたりと止まった。
「人が殺害された経緯と、犯人の特定。これが済むまでは全員が恐怖に混乱するばかり。犯人が見つかるまでに、次の被害者が出ちまうかもな」
二条はさっき持ってきたチラシを掲げてみせた。 何を思ったのか。チラシの真ん中に、ボールペンを突き刺す。
「安定した日常に大きく奇怪な穴を開けた、『殺人事件』という非日常。これを修復するまでは、誰も元の生活に帰れない。ホラー映画さながらにな」
「……」
「そこでたった一つ彼らがすがれる要素。それが『探偵』だ」
二条は真ん中に穴を開けたチラシを折り畳んだ。折られたことで穴が空いた箇所は見えなくなった。
「探偵ってのはな。『犯人』という名前の『現実的な要素』を提示することで、非日常を日常へと戻す装置だ」
二条はチラシをテーブルに置いた。紙がこすれる乾いた音がした。
「犯人が解明されるまでのミステリーってのは、ホラーと同じだ。訳の分からない存在に対して、人々は怯え、疑心にかられる。だが探偵が日常に空いた穴を埋めることで、彼らは無事に安堵を取り戻す」
「……何だか。それってずるいな」
僕は思わず口走っていた。
「ずるい? 何がだ」
「だって。それって全部、探偵の活躍に頼るしかないってことじゃないか」
二条は僕をじっと見ていた。サングラスの奥の瞳はたぶん見開かれてるのだろう。
「普通の人には犯人なんてすぐ見つけられないもの。自分の力で助かる方法はない……。だから探偵に頼むしかない。全部が探偵に支配されてるんだ。なんか、それこそちょっと怖いよ」
無言だった二条はやがて吹き出した。
その反応が面白くなくて僕は彼をにらむ。
「いや、悪い。馬鹿にしたんじゃなくて本当に面白いと思ったんだ」
二条は頬をかく。
「たしかに探偵なんて特別な存在には感情移入がしにくかったりする。そこで『助手』がいる訳だ」
「ワトソンとか?」
「まあな。お前は全て探偵頼りと言ったが……そんなことはない。幾ら探偵でも、たった一人で何もかも出来る訳はない。誰かの協力や援護があって『探偵』って装置は出来上がる。『助手』という人間味のある味方がいるから、『探偵』は成り立つんだ」
「……」
「ミステリーはホラーじゃない。だから『探偵』もただの超人には出来ない。そういう意味では……『助手』っていうのは案外、かなり重要な役目なのかもしれないな」
僕は息をついてグラスをテーブルに置いた。
「なんだか二条のせいで、これからは推理小説とか読んでも、ひねくれて考えるようになりそうだ」
「ま、ただの一説と思って聞き流せよ」
「今さら言うか? ……あっ」
「何だ?」
「だけど。もしもさ」
僕は少しためらってから彼に聞いた。
「もし――『探偵』や『助手』が存在しない、ミステリーがあったとしたら?」
「……」
「やっぱりホラーと違いがあるの?」
「いいや」
二条は再度チラシを手にとると、それを折り畳んだ状態から伸ばして、元の形に戻した。
「『探偵』のいないミステリーには、日常に戻る術がない」
「……」
「だから」
二条はチラシを引き裂いた。
丁度さっきボールペンで穴を開けた箇所を通して、チラシは二つに破られた。
「探偵がいなきゃ、全員が犯人という名前の『怪物』に食われて、それで終わりだ」
僕は何故か一言も発せられなかった。
グラスの中の氷が音を鳴らした。
「誰も元の日常には帰れないんだ」
二条は破れたチラシを見せながら、僕に向けて微笑した。
「ホラーは、それで正解だろ?」
近所に越してきた彼が、僕の家に挨拶に来たのがそもそもの始まりだ。
「どうも。ここに最近引っ越してきました。二条と申します」
奥の目が伺えない深い色合いのサングラスをかけた彼は、二条と名乗った。外見の胡散臭さとは裏腹に礼儀正しい男で、家族ぐるみで彼と親しくなるのは時間の問題だった。
小学生の僕が彼の事務所に足繁く通うようになったのは、純粋な好奇心から。
――二条が語る話を聞くためだ。
彼の話す内容は、同級生のものとも先生のものとも違った。
僕は二条の話を聞きたくて、放課後に他に用がなければ、必ずそこに向かう。
二条は探偵だ。お客と鉢合わせたり、仕事の邪魔になりやしないかと言われそうだが、僕は今まで彼が客と対面した所を見たことが一度もない。
客が来ないのに、どうやって仕事を続けてるのか。子供心に気にはなったが。直接尋ねたことはない。
大げさかもしれないが、尋ねたらもうここには来られないような、そんな直感が僕にはあった。
「じゃあ、今日はミステリーとホラーの違いについて教えてやるか」
開口一番に二条は僕にそう言った。
本当なら面会に来たお客が座るだろうソファに、僕は腰を落ち着けていた。二条の言ったことが腑に落ちず、僕はまばたきをした。
「考えるまでもなく全然違うんじゃないの?」
目の前にある木製のテーブルにはオレンジジュースの注がれたグラスがある。
僕はそれを持ち上げてストローから一口飲んだ。
二条は僕に笑いかける。
「ほう。たとえばどこが違うか言ってみろ」
「ホラーはお化けを怖がるもの。ミステリーは犯人をあてるもの。このぐらい誰でも分かるよ」
「だが『日常から非日常に変わるもの』と思ってみると随分と似たものに見えてこないか」
僕はジュースから視線を思わず持ち上げた。
二条は何を考えたのか。
一枚の適当なチラシを選び、それと引き出しからボールペンを持ちだして、再び僕の前に座った。
何をする気か検討もつかない。
だが僕はまたいつものように、気づかぬ内に彼の話に引きこまれ、夢中になっていた。
「推理小説では、探偵ってのは一種の『装置』みたいなものだ」
「装置?」
「登場人物を非日常から日常に帰す装置。ぞんざいに言ってみればホラーとミステリーの違いは、探偵役がいるかいないかだな」
僕はストローを気まぐれに噛んでから、二条に聞く。
「何言ってんのさ。さっきも言ったけど、ホラーとミステリーにはもっと大きな違いがあるだろ。ミステリーに出る犯人は、ゾンビとか幽霊じゃないんだから」
「だが犯人が見つかるまでは、定かじゃないだろ」
「え?」
「殺人現場に出くわすなんてのは、普段の環境からすれば充分な非日常だ。急に誰かが殺された。どうしてだ? いったい誰が? 登場人物達はきっと大きく混乱する。――それこそ、ゾンビやお化けにでも会ったようにね」
ストローからジュースをすする音がぴたりと止まった。
「人が殺害された経緯と、犯人の特定。これが済むまでは全員が恐怖に混乱するばかり。犯人が見つかるまでに、次の被害者が出ちまうかもな」
二条はさっき持ってきたチラシを掲げてみせた。 何を思ったのか。チラシの真ん中に、ボールペンを突き刺す。
「安定した日常に大きく奇怪な穴を開けた、『殺人事件』という非日常。これを修復するまでは、誰も元の生活に帰れない。ホラー映画さながらにな」
「……」
「そこでたった一つ彼らがすがれる要素。それが『探偵』だ」
二条は真ん中に穴を開けたチラシを折り畳んだ。折られたことで穴が空いた箇所は見えなくなった。
「探偵ってのはな。『犯人』という名前の『現実的な要素』を提示することで、非日常を日常へと戻す装置だ」
二条はチラシをテーブルに置いた。紙がこすれる乾いた音がした。
「犯人が解明されるまでのミステリーってのは、ホラーと同じだ。訳の分からない存在に対して、人々は怯え、疑心にかられる。だが探偵が日常に空いた穴を埋めることで、彼らは無事に安堵を取り戻す」
「……何だか。それってずるいな」
僕は思わず口走っていた。
「ずるい? 何がだ」
「だって。それって全部、探偵の活躍に頼るしかないってことじゃないか」
二条は僕をじっと見ていた。サングラスの奥の瞳はたぶん見開かれてるのだろう。
「普通の人には犯人なんてすぐ見つけられないもの。自分の力で助かる方法はない……。だから探偵に頼むしかない。全部が探偵に支配されてるんだ。なんか、それこそちょっと怖いよ」
無言だった二条はやがて吹き出した。
その反応が面白くなくて僕は彼をにらむ。
「いや、悪い。馬鹿にしたんじゃなくて本当に面白いと思ったんだ」
二条は頬をかく。
「たしかに探偵なんて特別な存在には感情移入がしにくかったりする。そこで『助手』がいる訳だ」
「ワトソンとか?」
「まあな。お前は全て探偵頼りと言ったが……そんなことはない。幾ら探偵でも、たった一人で何もかも出来る訳はない。誰かの協力や援護があって『探偵』って装置は出来上がる。『助手』という人間味のある味方がいるから、『探偵』は成り立つんだ」
「……」
「ミステリーはホラーじゃない。だから『探偵』もただの超人には出来ない。そういう意味では……『助手』っていうのは案外、かなり重要な役目なのかもしれないな」
僕は息をついてグラスをテーブルに置いた。
「なんだか二条のせいで、これからは推理小説とか読んでも、ひねくれて考えるようになりそうだ」
「ま、ただの一説と思って聞き流せよ」
「今さら言うか? ……あっ」
「何だ?」
「だけど。もしもさ」
僕は少しためらってから彼に聞いた。
「もし――『探偵』や『助手』が存在しない、ミステリーがあったとしたら?」
「……」
「やっぱりホラーと違いがあるの?」
「いいや」
二条は再度チラシを手にとると、それを折り畳んだ状態から伸ばして、元の形に戻した。
「『探偵』のいないミステリーには、日常に戻る術がない」
「……」
「だから」
二条はチラシを引き裂いた。
丁度さっきボールペンで穴を開けた箇所を通して、チラシは二つに破られた。
「探偵がいなきゃ、全員が犯人という名前の『怪物』に食われて、それで終わりだ」
僕は何故か一言も発せられなかった。
グラスの中の氷が音を鳴らした。
「誰も元の日常には帰れないんだ」
二条は破れたチラシを見せながら、僕に向けて微笑した。
「ホラーは、それで正解だろ?」