if.prologue
if.PROLOGUE
それは何もない至って平和な時期に訪れた。
「先生、おはよーございます」
シェリーは元気よく大好きな担任に挨拶をした。
今日は学校行事で山にキャンプに行くことになっていた。
キャンプ行きのバスに乗って座席に腰を据えると、シェリーはうきうきと自分のリュックを抱きしめた。お気に入りのリュックには人気ゲームのキャラクターの絵が刺繍されている。
バスが発進する。心地の良い振動に身を任せ、シェリーは横を向いた。
バスの車窓から過ぎ行く光景を眺める。
若い女性が犬の散歩をしていた。
喫茶店で初老の男性がカウンター席について、親しげにお喋りをしていた。
親子連れがショッピングモールに足を運んでいた。
人々はそれぞれの日常を享受して幸せそうに笑い合っていた。
それが伝播したようにシェリーもバスの座席でくすぐったそうに微笑してた。
だから、それが起きたのは本当に突然だった。
シェリーは身体のバランスを崩して、車窓におでこをぶつけそうになった。
生徒達にざわめきが起きる。先生も不審げに運転席を見る。
バスが急停車したのだ。
「何だ?」
何故バスが停まったか。理由はすぐ分かった。
バスの正面を見れば、そこには一人の青年が立ち尽くしていた。
往来は少ないとはいえ、道路の真ん中に立つなんて正気ではない。バスに轢かれて死んでてもおかしくなかったはずだ。
柔らかい茶髪に翠緑の瞳を持った、顔立ちの整ってる青年だ。俳優か何かだろうかと見紛う容姿をしている。
「なあに? あの人」
「何で道路に突っ立ってるんだろ?」
「頭がおかしいんじゃないか」
「でも、顔はすっごくかっこいいよ?」
「テレビの俳優さんに似てるね」
近くに座る女子はきゃっきゃとはしゃいでるが、何故だかシェリーは共感出来なかった。
明確な根拠はない。でも青年の目を見て、思わず独りごちていた。
「何だかあの男の人、目が怖い……」
青年はバスの前からどく気配がない。仕方なく運転手はバスから降りて、青年に近寄って声をかけた。
「あの。ここに居たら、轢かれちゃいますよ。どうかされました?」
道路の中央に堂々と立っているのだ。
どう見たってこの青年の方が悪いのだが、大人しい性格の運転手は心配そうに声をかけた。何かの事故でもあったのかと懸念してるのだ。
「こんな道路の真ん中に立ってたら、危ないですよ。もしも何かあったんなら」
運転手の声が途切れた。
奇妙なものがバスの車窓を通して見えた。
運転手の頭から腹までが地面にずり落ちたのだ。
マジックショーで見たことがある。
マジシャンは自らの身体を真っ二つにしてみせるのだ。でもそれは手品なんかじゃなかった。
運転手の身体は大量の血溜まりのなかに崩れ落ちていった。
青年の顔の半分には真っ赤な返り血が付着していた。
バスの中が途端に沈静化した。
青年の手は仄かに光が灯っていた。透明な緑色の光の膜が手を覆ってて、それでバスの運転手の身体を裂いたのだ。
誰もがそれを見て、理解していた。
あの青年は人間じゃない。
バスから逃げる暇はなかった。恐ろしい程の瞬発力で青年はバスに乗り込んできた。
シェリーは呆然として青年を見上げていた。
真っ赤な花弁が視界に舞い散った。
目の前で何が起きたか、一瞬わからなかった。遅れて気づく。先生が自分の盾になって、そして切り裂かれたのだ。
「……先生?」
呼びかけながらも頭では理解してた。大好きな先生はもう動かなくなったのだ。
シェリーは乾ききった口から微かに悲鳴を漏らした。
大声が出なかったのは、恐怖もあったが混乱の度合いが大きいせいだ。この異常すぎる事態は、自分が受け止められる容量を大幅に超えていた。
青年はシェリーに手を近づけた。彼女は自分も先生と同じ末路を遂げるのだと理解してた。覚悟ではなく一瞬の思考でそう判断していた。
私、ここで死ぬんだ?
不思議と客観的な冷静ささえ伴って、そう感じた。
だけど。いつまで経ってもその時は来ない。怪訝に思って顔をあげる。すると妙なことが起きていた。
目の前で突き出された青年の腕が大きく震えていたのだ。
「な……。何?」
場違いながら壊れかけの洗濯機を思い出した。衣類が引っかかって大幅に振動するあの姿によく似ていた。
青年の腕が自分の手を掴んだ。
「ひ……」
チクリと注射に似た痛みを感じた。大した痛さではない。
青年はあっさりと自分の手を離した。
シェリーは目眩と共にその場に倒れこんだ。バスの床に伏すと意識が陰ってついには気絶した。
「ん……っ」
再び目を覚ました時、そこは真っ赤な世界が出来上がっていた。バスの中には切り裂かれた死体が詰められていた。先生やクラスメート達は全員死んでいた。
「何で?」
恐怖と悲しみで顔を蒼白にしながらも、疑問が湧き上がる。
「何で……私だけ、殺されずに生き残ったの?」
シェリーはハッとして手を見る。あの青年に掴まれた手を。
「これは……」
自分の手には妙な金属片が刺さっていた。そしてその金属片がどうしても取れない。一体これは何なのだろう?
シェリーはとにかく誰かに助けを求めようと、バスの外に出た。
通り過ぎたばかりの喫茶店があって、そこに行ってみた。
ふらふらとおぼつかない足取りで店内に入る。
そして絶望した。そこにはバスの中と何ら変わらない光景があった。生存者は誰も居ない。
客が飲んでたコーヒーはぶちまけられていて、まだ乾いてない流血と混じり合っていた。
足音がして彼女は飛び退いた。
「きゃ……!」
目の前には男がいた。
さっきとは別の青年だ。彼女はその目を見て、男があの青年と同種の存在だとすぐに察した。彼がこの喫茶店の人々を惨殺したのだ。
逃げ出そうとしたが床板のくぼみに躓いて、転んでしまった。
死を覚悟した。でも何も起きない。
男は転んだシェリーのことを放って、店の外へと出て行った。悲鳴が聞こえた。また誰かが犠牲になったのだ。
喫茶店の床でシェリーはガタガタと震え上がっていた。
「何なの?」
恐怖と混乱がない交ぜになって、彼女の心臓を責め立てていた。
「何であいつら、私のことだけ無視するの?」
あの殺戮者達は、自分のことを素通りして殺そうとはしないようだ。他の人達は徹底的に始末するのに、シェリーのことは無視してる。
「理由は分からないけど……。あいつらは私を殺す気はないってこと?」
殺戮者達はどうやら、シェリーには危害を加えないようだ。彼女のことは素通りする。
それがどうしてかは分からない。
困惑の方が大きすぎて、喜べる余裕もない。
膝小僧をさすりながらシェリーは店の外に出た。
そして目を見開いた。
生き残ったのが幸運だとは必ずしも思えないぐらい、目の前の光景はあまりにも陰惨だった。
崩壊したビル群、死体の山、スクラップにされた車体の波。
容赦のない地獄絵図がそこに広がっていた。
「……どうして」
何でこんなことが起きてるのか。理解が追いつかない。本当だったらキャンプに行ってた。いつもの日常が迎えてくれるはずだった。なのに……。
「何で、こんな静かなの? ねえ」
彼女は気づいていた。
もうこの場の周囲一帯に、自分以外の生存者はほとんど居なくなってるのだ。
あいつらの手によって殺されないのが――自分だけ生き残ったことが幸福なのかどうか。それすら分からない。
脱力した彼女はへたり込んだ。もう泣きわめく気力も残ってなかった。
この先の世界の末路と、自分の未来のことを考えて、シェリーは頬に一筋だけ涙を流した。
彼らは彼らにしか分からない、示し合わせたスケジュールに合わせて、人間狩りを続けている。
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